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コイン収集家

ヴィタリー、42歳

住んでるのはモスクワの郊外のレウトフ。コインを集めてるんだ。一番最初のコインを手に入れたのはまだ幼稚園だから5つの時さ。砂場をほじくってたら見つけたんだ。穴の空いた5ゾロチだった。たぶん誰かがキーホルダーかネックレスにしてたんじゃねえかな。

学校で妹の隣の席に座ってたやつがコインを集めてるって知ったんだ。そいつからニコライ2世の時代のコインと紙幣も手に入れた。そん時俺は思ったね。「かっこいい!」って。そんなわけでコインを集めだしたんだ。もう病気だよね。

学校はあんまり好きじゃなかったな。気に入らないことはたくさんあったけど、制服を着なくちゃいけないのは面倒だった。興味ないことも勉強しなくちゃいけないしさ。数学何て意味不明。化学、幾何学みたいな理系科目はお手上げよ。どっちかっていうと文系なんだろうな。歴史とかは面白かったな。いつも成績は4とか5だったよ。(編注:ロシアは5段階評価)

地元の専門学校で会計を勉強したんだ。周りはみんな俺が会計士になると思ってた。まあそうはならなかったわけだけど。そのあと大学で会計、監査、経済を専攻したんだ。結局卒業はしなくて、まったくなんの役にもたちゃしなかったよ。会計士としてちょっと働いたこともあるんだ。3日もたなかったけどね。積み上げられた未処理の書類の山を見てぞっとしたわけ。お手上げだって。でも今は働いときゃよかったなって思ってる。

90年代は運送屋をやってたんだ。ガゼリ(編注:ロシア製軽トラック)を持ってたから。広告打って、それを見た客からの電話で飛んでいくわけさ。食料品とか家具とかが多かったな。景気が悪くなって99年にはトラックは売っちまったよ。今は仕事もないからまともに生計も立たないね。コイン集め以外に特になにもしてないんだ。おふくろは俺の趣味については良く思ってくれてるよ。重要なのは俺が何か打ち込めることがあることだって。馬鹿やってその辺でゴロゴロしてるよりはましだろ。

コイン集めの方法はワールドカップの時に思いついたんだ。あの時モスクワは外国人であふれてたよ。6月19日だったな。メキシコが勝った日で赤の広場が緑一色に染まった。最初は普通に声をかけてみたんだ。コイン交換しないかって。いくつかコインは手に入ったんだけど、俺が言ってることをちゃんと理解してもらえたかは疑わしかった。それで思いついたんだ。紙に書いて見せればいい!って。それもいろんな言語で。紙を読んでもらって、その後どうするかは相手が決めればいい。広場にあるレーニン廟の行列に目を付けたんだ。どこに急いでるでもない外国人がこんなにたくさんいる場所なんて他にないからね。自分の紙もゆっくり目を通してくれる。

最初は高価な10ルーブル記念コインを交換してた。その後別のアイデアが浮かんだんだ。家に10キロ分くらいあるソ連時代のコインを交換したらどうかって。もしかしたらうまくいくかもしれない。さっそく家から持ってきて並べてみたんだけど、うまくいったんだなこれが。それからは毎日赤の広場に来るようにったんだ。マイナス20度の真冬も関係なかった。辛抱強く立ち続けたよ。

外国人の反応はいろいろだな。興味を持ってくれるやつらもいるけど、そうじゃないやつらもいる。そもそもなんで外国に自分とこの国の小銭を持ってくるんだって。

時々自分でもコインを買うんだ。最近1924年の銀貨を千ルーブルで手に入れたんだ。労働者とコルホーズの女性が彫ってあるやつ。

今は時代が変わっちまったけど、ソ連時代は外国に行ける人間は一握りしかいなかった。それもハンガリー、ブルガリア、ポーランド、チェコみたいな兄弟社会主義国に限定されてた。そういう国のコインは切手と交換して手に入れてたんだ。そのうちキャンディーのおまけと包み紙を集めて、それとコインを交換するようにもなった。貴重なコインを自分で見つけたことはないけど、俺のおじさんが1734年製のポルシュカ(編注:ロシア帝政時代のコイン)を見つけて俺にくれたんだ。

Ucoinっていうコイン収集のためのサイトをよく使ってるんだ。サイトに自分のコレクションと交換希望価格を載せる。希望者がいればオファーが送られてくる。後はどっか地下鉄の駅とかで待ち合わせしてコインを交換するわけさ。

ウクライナに一度行ったことがあるくらいで、旅行したことはほとんどないんだ。でもコイン収集のおかげで地理や歴史には詳しくなったな。コインっていうやつはさ、本当にいろんなものとつながってるんだよ。そのコインに何が描かれているのか見ていて全く飽きないね。動物、魚、植物、花。戦勝記念みたいな歴史的な出来事だったり、スポーツとかレースの優勝者だったり。

古いコインを見てると時々思うんだ。いったいこいつはだれのものだったんだろうって。その持ち主はどんなやつだったんだろうって。エカテリーナ2世の時の5カペイカを時々手に取ってみることがある。そうすると、コインに古い魂みたいなものが宿ってて、自分がそれに触れられたような気がするんだ。

コレクションは全部で数千枚は下らないね。196ヵ国分あるんだ。そのうち180ヵ国はまだ現存してるけど、残りの16ヵ国はもう存在してない国だな。チェコスロバキア、東ドイツ、西ドイツとか。国は無くなってもコインは残るわけさ。俺のコレクションの中で一番古いのは1707年のピョートル大帝のポルシュカだな。1725年まではコインの年号は文字で刻印されてたんだ。そういうのはスラビャンスキーって呼ばれてる。ピョートルが市民年を導入した1725年以降は数字で刻印されるようになったんだ。

アメリカの25セント硬貨はほとんど持ってるよ。あとは北マリアナ諸島のやつが揃えばコンプリート。国立公園がデザインされた25セント硬貨もあってさ。毎年5種類の硬貨が発行されるんだけど、2019年のやつがあと2枚がどうしても手に入らないんだ。まあヴィソツキーが歌ったみたいに「闇のかなたに」ってとこだろうな。

イギリスとその海外領土のコインを一番熱心に集めてるかな。マン島、ジブラルタル、ジャージー、ガーンジー、フィジーとか。やつらたくさん植民地持ってただろ?キプロスのコインはエリザベス女王、ジョージ5世と6世のやつも持ってる。でもエリザベスのやつが一番気に入ってる。仲間は「おまえエリザベスに惚れてんだろ」なんてからかうんだけど。そんなことねえよ。ただ、なんか彼女のコインが気に入ってるんだ。だって、ジョージはおっかねえ顔したハゲだしさ。エリザベスのはけっこう簡単に手に入るんだ。今でも通貨として流通してるのもあるし。

絶対に手に入らないコインもあるんだ。世界中で数枚しかない博物館級のやつさ。例えばロマノフ王朝、第四代女王のアンナの鎖柄のコインとか。こいつは1500万ルーブルは下らないな。世界中に数枚しか残ってないんだ。コインがクレジットカードみたいなもんに取って代わられることはないと思ってる。だって、みんながみんなカードを使えるわけじゃねえだろ?年金生活のじいさんばあさんが現金を手放すことはないだろうしさ。

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将軍の妻

夫は軍のパイロットでした。彼の人生は平坦ではなく、彼と人生を共にしたことで、私の人生もまた簡単なもではありませんでした。45年の結婚生活で、ジョージア、アゼルバイジャン、ロシア、ウズベキスタンに住みました。

夫は子供の頃からパイロットになるのが夢だったんです。チカロフが1937年にモスクワ、バンクーバー間の無着陸飛行を成功させた時は、国中の男の子が飛行士にあこがれたものです。そういうわけで、夫はウクライナのハリコフの航空学校に入学しました。

夫と出会った時、私は17歳でした。休暇で私の住むウクライナの村にやって来たんです。パレード用の軍服で着飾って、腰には短剣、頭には士官帽。彼から目が離せなかった。村中が尊敬の眼差しで彼を見つめていました。

最初に私をダンスに誘ったのは彼の弟だったんです。一曲踊った後に彼が来て「ボリス、ちょっと休んでろよ、俺がおまえの彼女と踊ってるからさ」結局一晩中彼と踊って、その後家まで送ってくれました。5月9日のことでした。その月の24日にはもう婚姻届けを出していました。まるで霧の中にいるみたいでした。

実は、最初結婚届は受け付けられなかったんです。私はまだ18になっていなかったので。母親を呼んでくるように言われましたが、彼がなんとか話をつけて、結局受理されました。

家族を持つという意味が私にはよく分かっていませんでした。セックスについてももちろん何も知りません。ソ連時代にセックスは無かったんです。全てはベールでおおわれて、子供が知る由もありません。結婚した時は、一度でもそういう関係を持てば必ず妊娠すると思っていました。村では女の子同士でこんな会話をしたものです。「あんたんとこに3人子供がいるってことは、あんたのパパとママは3回もセックスしたってことね!」

できるのは村の家畜を観察するくらいです。オス牛とメス牛との間で何かがあって、その後子牛が生まれる。だから私はこう思ってんです。数年は夫と一緒に待とう。兄弟みたいにくらせばいいなって。

一緒にベッドで寝ていると、彼は私に覆いかぶさってきました。私は恐くて恐くて。彼は彼で私が叫びだすんじゃないかとひやひやしていました。実は彼もそういう経験がなかったんです。結局2日間一緒のベッドで寝て、何もありませんでした。そうしているうちに休暇は終わってしまい、彼はアゼルバイジャンへ戻っていきました。

隊に戻った彼は、上官に休暇中に結婚したことを報告しました。すると、上官はすごいは剣幕でまくし立てます「なんてこった!17の小娘をこんなところに引っ張ってくる気か?ここはアゼルバイジャンだぞ!見渡す限りの乾燥地帯、劣悪な生活環境、おまけになんも無いときた。おまえいかれちまったのか?」

実はそれまでに、モスクワ娘と結婚した隊員がいて、彼の新妻はここへやってきて2日後には逃げ出したそうです。だから、私がやってきた時は隊の全員が好奇の目で私たちを見ていました。いったいどうなるんだろうって。でも私は特になんとも思わなかったんです。本当に。その後すぐ妊娠して長男を産みました。食事はひどくて、だいたいは缶詰を食べていました。牛乳はなくて。だから、近所の女性にお願いしてバッファローのミルクを持ってきてもらいました。

アゼルバイジャンはその当時、最も荒廃した国の一つでした。街に女性一人で行くなんて考えられません。すぐに男性の集団に狙われてしまいます。だから果物を買いに市場に行く時でさえ武装した兵士に付き添ってもらっていました。

パイロットというのは特別な職業です。今まで、たくさんの人を見送ってきました。夫の航空学校の卒業アルバムを見ると、その中の3人に1人は墜落の末に亡くなっています。でも特別なことじゃないんです。昨日亡くなった仲間を今日弔ってやり、明日は自分が飛んでいく。休暇前には飛行感覚が鈍らないように、特別な空域でのループ飛行が義務付けられていました。

60年代にドイツに引っ越して来た時、西洋の暮らしぶりは目を見張るものがありました。ある日、夫が夜間飛行のシフトを命じられました。帰りはいつもより遅くなります。そこで私は女友達とベルリンの街に繰り出しました。彼女はドイツ語が話せたし、私たちは美しく、スタイリッシュで他のドイツ人女性と見分けがつかないくらいでした。もちろんこのことがバレてしまえば、24時間以内にソ連へ強制送還です。

西ベルリンは驚きに満ちていました。私たちは気の向くままに街を歩き、レストランに入りました。席に落ち着いてしばらくすると、ウェイターがワインの入ったグラスを二つテーブルに運んできました。私たちは注文した記憶はありません。ウェイターはテーブルの向こう側にいる男性たちを指します。私たちは悩みました。どうしようかしら?もしワインを飲んだらその気があるって思われるかも。でも飲まなかったら、気分を害することになるかもしれない。結局、私たちは料理を大急ぎでかき込んでお勘定。ワインを一気飲みして店から飛び出していきました。

夫とは離婚寸前まで行ったことが二度ほどありました。最初は息子のことでです。80年代でした。当時、軍は慢性的な新兵不足に悩まされていました。戦争の影響ですね。軍はまず大学から学生を、さらに刑務所から受刑者まで解放して新兵を召集しました。息子は大学の一年を終えたばかりでした。夫は当時、軍で要職についていたので、息子を兵役から遠ざけることは簡単なことでした。でも夫は愛国者でした。兵役に行かせればいい。そう言ったんです。

軍での初日、息子は身ぐるみはがされ靴とジャケットを取り上げられました。さらにカミソリや石けんもです。ひどい新兵いじめが横行していました。私はその時一気に老け込んでしまいました。夫と離婚間際まで行ったのはそれが最初です。

二度目は、夫が血圧の問題でパイロットの仕事から外された時でした。私はあまりのうれしさに、それを隠すことができませんでした。もうこれ以上、彼の夜間飛行中、夜空に響くエンジン音がふつと消えるたび、止まりそうになる心臓をかかえ、彼を待たなくてもいいからです。彼は喜ぶ私を憎みさえしました。私たちの人生で最も困難な時期でした。でも夫は私のことをとても愛していました。時がすべてを解決してくれました。

夫がいなくなって20年です。彼の亡くなった年がいつだったか思い出せません。彼は私の人生から消えてしまったんです。それまで病気なんてしたことがない人でした。それが急にガンが見つかって。7ヵ月苦しみました。昼も夜もずっと付き添って、二人きりでした。息子は私が夫の後を追って死んでしまうのではないかと心配していたみたいです。彼が亡くなった後打ち明けてくれました。

仮に人生をやり直せるって言われても、一日だってやり直したい日なんてないんです。それがたとえ、とてもつらい時期であったとしても。夫は子供たちに、ママは女性であり、一番重要な存在なんだと教えてくれました。子供たちは今でもその教えを守って私に接してくれています。

私は夫を愛し尊重してきました。でも彼は少し違います。彼は私を崇めていました。誰かがこう言ってたわ。家族の二人。一人は愛し、もう一人はその愛を受け入れる。だから私は彼の愛を受け入れたの。

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そっくりさん

シベリアのノボシビルスク出身です。地元では20年近く毛皮販売のビジネスをしていました。ある日のことです。女友達と彼女の幼い息子と一緒にテレビを見ながら食事をしていました。すると、その男の子がスプーンを床に落としてしまったんです。見ると、彼は口をあんぐりと開けています。

「見てママ!あれワーシャおじさんだよ!」

テレビの画面に映っていたのはプーチンでした。彼が初めて大統領に就任して以来、私はプーチンになったんです。すぐに、あだ名までプーチンになりました。地元の毛皮業界では私の本名を知っている人間の方が少なかったでしょう。

そっくりさんとしてのパフォーマンスの機会を求めて、年に3、4回モスクワに来るような生活を数年続けていました。そんな時に自分の店が火事に遭ったんです。原因は放火で、店の入っていたエカテリンブルクのショッピングセンター全体が焼けてしまいました。2015年の5月のことです。数百万ルーブル分の商品も店も灰となり、店仕舞いする他ありませんでした。そんな状況で追い立てられるようにモスクワにやってきました。たどり着いたのは赤の広場でした。そこでプーチンのそっくりさんとして生計を立てる生活が始まりました。

歩き方をまねるのは簡単でした。見た目はもともと似ていましたし、身長もほぼ同じです。そこで私は、顔の表情や発声の仕方、話し方に集中することにしました。表情は意識せずとも似ていたわけですが、本物に近づけるようにさらに努力しました。最初の4年間はそんな風に過ぎて行きました。

プーチンが2期目に入ったころには、だいぶ手ごたえを感じていました。そこでもう少し踏み出してみようと、広告を打って宣伝し始めたんです。するとウクライナから議員パーティーの仕事が舞い込みました。それはクリミアのヤルタで行われる議員の結婚日記念パーティーでした。私は護衛の付いた車両で会場に乗りつけました。主役である議員はそこで耳打ちされます「とても重要な方が、あなたのために駆けつけて下さっています」。私は車から颯爽と降りていきます。彼はもうパニックです。これは悪い冗談かなにかか?それとも本当にプーチンが来たのか?彼はパーティーから3日間、仕掛け人である妻と一言も口を聞かなかったそうです。

お祝いの席に呼ばれることが多いですね。費用は3万ルーブルくらい。それくらいの金額をポンと出せるくらいの人たちですから、自分でビジネスをやっている人や政治家が多いです。

赤の広場での私のパフォーマンスに対する反応は様々です。だいたいみんな驚きます。中国人観光客なんかは飛んできて喜んでくれますね。俺たちの親友プーチン!とか言って。よく分からないけど、中国にはいろいろと便宜を図ってるんでしょう。習近平ともうまくやってるみたいだし。

バスとか地下鉄の中で気づかれることも多いですよ。家で衣装に着替えてから出かけるので。たいていの人は私の姿を見つけて笑顔になります。ネガティブな反応もあります。当然です。特にプーチンの言動や政治のやり方に対して不満を持っている人たちは、私が地獄に落ちて死んで欲しいとおおっぴらに言ってきます。いつ大統領から降りるのか。年金はいつになったら上げるつもりなのかと聞かれることもあります。それぞれ自分の抱える問題について話してくるわけです。私はそういう人たちすべてに対して幸せを願っています。だって、それ以外にどんなことができますか?自分から悪態をついたりはしません。悪意はできるだけ解消できるように努めて、ポジティブな空気にするように心がけています。そういう性格なんです。

多くの人はこう言います。「なぜおまえはプーチンの宣伝なんかやって、やつの好感度をあげるような真似をしているのか。やつはこの国と自分たちロシア人の為に何もしてくれなかったじゃないか」って。私はこう答えることにしています。「時間がたてば、彼が何をして何をしなかったのか、はっきりしてくるんじゃないでしょうか」。私は自分を単なるパフォーマーとは考えていません。パフォーマーであることに加えて、さらにちょっとした何かなのです。なぜなら人々は私とプーチンを分かちがたく結び付けて考えているからです。他のパフォーマーは複数のキャラクターを演じ分けますが、彼ら自身がそのキャラクターと結び付くことは稀でしょう。私の役はひとつです。私はただ一人の人間を演じる俳優なのです。

私は教育学を含む2つの大学の学位と、医療を含む2つのカレッジの学位を持っています。リハビリテーション、教育、体育教師、エコノミスト、財務管理、これらの資格は正直あまり役に立ちませんでした。

特になにもなければ、赤の広場に11時までに出勤して、夜の7時ころまで居ます。就業時間ががあるわけではないので、時間が前後することはあります。今はスターリンと組んで仕事をしています。彼は私よりもこの仕事を長くやっています。とてもいい友達なんです。スターリンのキャラは人気で、今広場にはたくさんのスターリン(6,7人くらい)が居ます。だから、僕らは仕事がうまくいくように、お互いによく助け合っているんです。でも彼はその中でも一番そっくりだと思います。プーチンも人気があります。プーチンとスターリン、人気者同士でタッグを組んでいるわけです。私は彼と仕事をするのが好きだし、彼も僕と組んで仕事をするのを気に入ってくれています。一緒に仕事をした方が楽しいですもんね。

ただ、もうこの商売からは足を洗うことに決めたんです。うちには子供が4人います。一番上が24で、一番下は3つです。以前は家族一緒にモスクワに住んでいたんですが、今年の12月にノボシビルスクに帰っていきました。私はいつも忙しくしていて、嫁は子供たちとここに居るのがつらくなってしまったんです。この仕事は経済的な安定を約束してくれませんから、これで家族を養うのは簡単ではありません。私は、彼に似ているという事実を、ある種の使命のように感じています。ただ、それをどう扱えばいいのか、ただ忘れ去ってしまうべきなのか、私にはまだよく分かりません。長い間、私はプーチンというイメージを気品をもってどうにか演じてきました。ただ、手を貸してくれる人は現れませんでした。

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占い師

私はいつも不思議なことに興味があったわ。生まれたのは太陰暦の25日。これは洞察と直感に適正があることを意味してるの。人と触れ合うことは私の使命で、その人たちに奉仕することが私のカルマだと思ってるの。

占術と秘術を始めてもう40年はたったかしら。元々はエンジニアだったのよ。52年勤めあげたわ。数学的な思考力があったのね。今の世の中はなんでもデジタルじゃない。あのピタゴラスは特別な表を作ったのよ。表には誕生日の数字が入れられようになっていて、1から9の数字の組み合わせで未来や性格、情熱、義務、趣味なんかについて占ったみたいね。

私はプロの占い師じゃないの。趣味みたいなものね。全ては友達に誘われていった映画から始まったの。70年代だったわ。フィリピン人のヒーラーがガンの腫瘍を切除するところが流れたの。とても気に入ったわ。それからおばあちゃんにカード占いを教えてもらって。シークレットのヨガ教室にも行ったわね。でもそういうのはソ連時代は禁止されていたから、ある日警察が来て終わっちゃったわ。そのあと占いは自分から辞めたの。罪深いことなんじゃないかと思ったの。

数字だけで何ができるのかしら。数は私たちの世界の共通のものさしよね。生まれつきの性格的な違いって、生年月日によるものだと思うのよね。そこからいろいろあって数秘術に行きついて、ダウジングとかフレームとかを使い始めたの。

70年代は全ロシア博覧センターのキャリアセンターで働いていたわ。基本のマニュアルはあったんだけど、そこに私のセンスで数秘術のアクセントを加えたわけ。今は基本的に、知り合いと友達に対して無料で相談に乗っているわ。宣伝もしていないし。相談者と心を通わせるには、相手が私を信じてくれることが重要ね。常連の何人かは私のアドバイスなしには何も決められないくらいよ。

友達の息子の車選びも手伝ったわね。事前に日和のいい時を占っておいたから、彼はその日に中古車市に出かけたわけ。5万ルーブルしか持ってなかったわ。彼から電話が来ると、私はボンネットの上に手を置くように言ったの。後は私のフレームを通して車の性能を判断するだけ。自動車にも魂があるのよ。だから犬が飼い主に対するように、車も持ち主に対してちゃんと応えてくれる。結局4万5千ルーブルで車を手に入れたんだけど、その車は当たりだったみたいね。

こんなこともあったわ。友達がイヤリングを失くして電話してきたの。一日かけて家中探したけどどこにもないって。すぐに私はフレームを取り出して彼女に言ったわ「頭を左に向けてみて」そこには、壁の枠材の上で光るイヤリングがあったの。

ある女性は付き合っている男性について相談に来たの。私は「彼が実は40歳だってあなた知ってる?」と言ったわ。彼女はその時23歳で、彼は嘘をついていたみたいね。二日後に彼女が戻ってきて「リマ、確かにあなたの言ったことは本当でした。彼は42歳だった」たくさんの若い男の子たちから言い寄られてる美人さんに、そんな古だぬき必要ないでしょ?全てを知って、彼女は彼を捨てたわけ。時々空港の税関で働いたらなんて考えるわ。だって、中身が何か、ウォッカ?武器?実弾?すぐに分かるもの。

フレームを使えば診断もできるのよ。全身、血圧、血液でもチェックできるわ。どっちかというと民間療法を信じてるの。ある時セラピストのところに行ったの。体調が悪いって伝えると「もうだいぶご高齢ですからね。これ以上治療するところはないですよ」なんて言うわけ。さっそくフレームを取り出してみてわかったの。彼女のセラピストの資格は買ったものだって!

たいていの人はこういうことは信じてくれないわ。数秘術の権威コノバロフ博士がルジニキスタジアムで講演した時は、スタジアムが人で溢れかえったのよ。チケットは1万2千ルーブルもしたわ。4千ルーブルの席もあったけど、私は耳が悪いから少しでもステージの近くに座りたかったの。彼を詐欺師よばわりする人がいることも知ってる。でも、6千人の聴衆が固唾をのんで、ステージ上の博士の声に耳を澄ませる。ハエが飛び去ってもだれもそれに気が付かない。そんなのを見せつけられて信じられないでいられる?ちなみに、これはNLP(神経言語プログラミング)って言われるものよ。とても生きにくい世の中になったわよね。絶えず心理的な攻撃を受けてるようなものよ。だから、みんな彼のような人の所に来て安心するわけ。これで大丈夫。全部うまくいくって。

毎晩水を入れたコップを三角錐の下に置いておくの。朝になると水にピラミッドのパワーが充電されているわ。この充電のパワーはとても強力だから、包丁を研ぐ必要もなくなる。曲がりもまっすぐになって、ちゃんとあるべき場所に収まってるのよ。家の中は数秘術の本で溢れてるわ。「薬に頼らず自分で治す」「バイオエネルギーのダイヤモンド」「誕生日 – 人を理解するためのカギ)」「霊的な悟りを得るために」これは科学者のセミョーノフさんから直接もらった本。これは宇宙から撮った写真。キリストの絵。これは特別に選んだお祈りの数字よ。例えば、視神経の治療のためには、まず祈祷文、その後主の祈り、そして最後にこの数字を読むのよ。アテローム性動脈硬化症にはこう言うの。「いち….. さん、に….. いち….. ぜろ、ぜろ、ANMISA」これを何回か繰り返せば、症状はどんどんよくなるはずよ。

仕事をしていると私は必要とされているって感じるの。最近始めて父のお墓参りに行ったわ。それで私の相談者の一人に言ったの。これでもう心残りはないわって。そうしたら彼女は「リマ、そんなこと言わないでください。私たちはみんなあなたが必要なんです!」ですって。私の仕事は人がする失敗を少なくすることかしらね。